歯を噛み締める弥耶をチラ見しながら少女が恐る恐る口を開く。
「そういうあなたこそどうして」
「ボク? ボクは特別だから。あれ、知らないの? ボクって」
そこで素早く身を翻す。隙を突いて逃げ出そうとした弥耶の右手首を少年は素早く握り、背中へ向かって捻るあげる。
「痛っ」
握っていたナイフは最初に倒された時に落としてしまっている。
ようやく理解する。少女へ向かって突進した弥耶の背後にこの少年が飛び掛り、押し倒したのだ。この少年は、いったいどこにいたのだろうか。弥耶が少女の後を付けている間、視界のどこにもいなかったはずなのだが。
手首を捻り上げられながら考える。
それに、この少年は。
「はな、して」
「離してと言われて離すほどお人好しじゃない」
鼻で笑い、少女に指示する。
「警察」
その一言に、少女は慌てて携帯を取り出す。
「やめて、警察には」
「それは無理だな。噂だともう何人も襲ってるみたいだし。このまま野放しってワケにはいかないでしょ」
「もうしない、こんな事しないから」
「そういう話は警察で言ってね」
冷ややかに答える。傍らで少女が、震える声で警察に連絡している。警察って、別に悪い事をしていなくってもなんとなく緊張するものだ。弥耶も一度だけお世話になった事があるから知っている。姉が投身自殺をした時、警察に事情を聞かれた。
痛みに耐え切れず、弥耶は崩れるように膝をつく。それでも少年は離す事はしない。
「ここは駅裏だからね、駅の交番に常駐している警官がすぐに来るよ。唐渓の名前を出したから、きっと五分もかからないね」
「そんな」
絶望が弥耶を襲う。どうして、どうしてこうなったのだ?
不安と怨念を込めた瞳で少年と、すぐ後ろの少女を睨む。
「アタシは悪くない。アタシは何も悪い事はしていない。なのにどうして」
どうして自分は唐渓を追放されたのだ。
「仕方がないのさ。それが唐渓の掟。運が無かったと諦めるんだね」
「ねぇ、この人、知ってるの?」
少年は少女を振り返る。
「知ってるよ。さっき言っただろ。元級友」
「級友?」
「そ、唐渓中学の時に同じクラスだった事があるんだ。中三の時に中退しちゃったけどね」
「中退?」
「あぁ、言っとくけど、唐渓での生活に馴染めなくってってワケじゃないよ。身分低かったワリには頑張ってたからね。そうだろう?」
小首を傾げて弥耶を見下ろす。
「権力者にしっかり媚売っててさ、その努力はもう本当に見惚れるくらいだったよ。あれくらいの根性と図太さがあれば、高校へ進学しても、大学へ進んでも、卒業してその先の社会に出ていっても、きっとちゃっかりと生きてけるはずだったと思うよ」
「じゃあ、中退って?」
「それはね、この子の姉貴が麻薬に手を出して、その上、高校の校舎から飛び降りて自殺してねぇ」
「あ、それって、去年の春休みに」
少女は思わず口に掌を当て、弥耶を見下ろす。
「あれって、確か数学の先生が絡んでて」
「そうそう、なんでもくだらない教師だったって話だけどね。当時ボクはまだ中学生だったからその数学教師ってのがどんなヤツだったのかは知らないんだけれど、ボクの姉貴の話ではさ」
その時、路地の向こうからバタバタと乱れた足音が響いてくる。見ると、明らかに警官とわかる三人が息を切らせて走ってきた。
「お、お待たせ致しました」
警官ってそんな低姿勢なのか? と目をパチクリさせる少女と、相手の態度などまるで当たり前とばかりに片手を腰に当てる少年へ向かって敬礼する三人。
「犯人はコレ」
言って、腕を振って弥耶を放り投げる。
「悪い事したなんて全然思ってないみたいだから、しっかり締め上げてね」
「そんなコトないっ! アタシは」
「話は署で聞く。来いっ!」
反論しようとする弥耶の身体を二人の警官が取り押さえる。相手が女性の場合は婦警が担当するものなのだろうが、そういった事にはまるでお構いなし。弥耶は二人の男性に両脇を抱えられ、引き摺られるようにして連れて行かれる。問答無用といったカンジだ。
暴れるワケではないが何やら懇願するような声をあげる弥耶と、そんな彼女になどまったく耳も貸さない二人。三人の様子にしばらく視線を送っていたもう一人の警官が、ハタッと思い出したかのように少年と少女へ向き直る。
「お待たせ致しましてすみません」
「本当に待ったよ。通報してから何分かかってんの?」
「申し訳ありません。ちょっと、巡回中の警官もおりまして人手が足りなかったもので。お怪我などはございませんか?」
「ないよ」
「そうですか。ではお手数ですが、お二人にもお話を伺いたいので、署までご同行しては頂けませんでしょうか?」
「えぇぇ? これからぁ?」
気怠るそうな少年の態度にも、警官は低姿勢を貫く。どのような事があっても、唐渓の生徒の機嫌などを損ねてはいけない。
「申し訳ございません。それほどお時間は取りませんから」
「そう? まぁ、こっちとしても我侭言って迷惑を掛けるつもりはないからね。少しくらいなら、ねぇ?」
言って後ろを振り返る。少女は黙って頷く。警官や警察署の世話になるのは初めてだ。なぜだか緊張する。
襲われたのはこっちなのよ。しっかりしなさい。
「私は別に」
そこまで言ってはみたものの、あまり気乗りはしない。
夏の東京公演のチケット、店で受け取るつもりだったのに。
少し口を尖らせながらも同意する少女に緩く笑い、そうして少年が警官へと向き直った時だった。
「あ、雨」
少女の言葉に、他の二人が空を仰ぐ。灰色の重たそうな雲が一面を占めている。午前中は晴天だったのだが、昼過ぎくらいから曇りはじめていたのだ。
「降ってきたか」
と言っている間に雨脚は強くなる。
「わぁ、これは本降りだな。さぁ、二人とも早くこちらへ」
警官は慌てて二人を促す。だが少年は、慣れた手つきで少女の肩を抱くと、警官が指差す方角とはまったく正反対の、近くの店舗の軒先に移動した。そうして涼しい顔で振り返る。
「ボクたちはココで待ってるから、パトまわしてよ」
「は?」
「でなければタクシー」
「あの」
「何? ひょっとして、ボクたちをこの雨の中、駅前の警察署まで歩かせようっての? 冗談だよね?」
「あの、それは」
シットリと警官の制服が濡れ始めている。だがそれでも、少年たちと一緒に軒下に避難する事はせず、駅の方向を指差した。
「今なら走ればほとんど濡れずに行けますよ」
「何、雨の中を走らせようっての? ボクはともかく彼女まで? 冗談でしょ。唐渓の生徒を雨の中で走らせたなんて知れたら、アンタ出世にヒビくよ」
「べ、別には私は出世など」
「他の人間の出世にもね」
ギョッする警官。
「アンタがよくっても、他の人間はどうなのかなぁ? アンタの上司とかさぁ、同僚とかさぁ」
「そ、それは」
「いいよ、そんなふうにグタグタ言うんならもうアンタには頼まない。ったく、使えないね」
最後の方はブツブツとボヤくように呟きながら携帯を取り出す。そうしてボタンを押した。
「ボクたち、署には行かないよ」
「え?」
「帰る。これから迎えを呼ぶよ。こんな雨の中、こんなところにいつまでも立たされるのは御免だからね」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
「待てない」
言って携帯を耳に当てるその仕草に、警官は慌てて両手を振る。
「わ、わかりました。すぐに迎えを呼びます。パトカーを、い、いえ、タクシーを、タクシーをすぐにまわします。だから帰るのだけは」
「本当?」
「本当ですっ!」
「だったら早くして」
言われて警官が携帯を取り出す。が、タクシーってどうやって呼ぶんだ? 番号は?
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